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日常のシャーマニズム [エッセイ]



「変性意識」という言葉をご存知だろうか。

かなり乱暴に意訳するなら「ハイ」である。
微妙に意味が違ってしまうが「非日常感覚」と
言ってもイイのだろうか?

とにかく「トリップ」だの「ゾーン」だの
「いっちゃってる。。」だの、である。
普段と違う意識、感覚で世界を捉え直す
そんな状態のこと、なのである。

20代の前半にアジアを1年半放浪して
日本に帰国して暫くしてから
数年ほど離れてしまっていた合気道の道場に
再び通い直そうかと考えていた時
何かの縁で巡り合った先生が、少し
いや、かなり変わった先生だった。

とにかく修練は朝でないと意味がない!
との持論から、毎朝5時くらいからマンションの
一室の道場で学生やら仕事前の社会人相手に
真冬でも窓を全開にして、ホワイトボードを前に
平気で1〜2時間、講義を繰り広げるのである。
それはもう、寒いわ、眠いわ、足が痺れるわ、で
まあ、この環境だけでもチョットした極限状態なのだが。。

その講義内容もかなりディープで多岐にわたっていた。

「解剖学」の視点から人体をとらえ
いかに「内臓力」がその人間のパワーや感性
そして無意識に影響を与えるかを説き
素食と健康の重要性で締めくくり
技の稽古は一切無し。。

あるときは物理学や量子力学とエネルギー論を
さんざん語った挙句、「これらを知らないで
どったんばったん武道をやってるのは、自分の
使う力の根源を知らないまま暴れてるだけだ。
本を読みましょう!知識と経験の層が深ければ深いほど
そこから出て来る言葉やパフォーマンスは多元的になる!」
で、その日の稽古が終わることも度々であった。

武道は強くなる為のものじゃない。
元よりあった元気な状態、健やかな状態を
少しでも取り戻し保つ為のもの。
言うなれば「リハビリテーション」だ!
と、きたもんである。。
護身術やら強さやらを求めて道場に入会した人は
エラいところに来てしまったと思ったに違いない。

ただ先生が説く「自然界のエネルギーは朝がピーク。
後は夜に向けてドンドン落ちて行く。夜の業は迷いに
落ちやすく、朝は悟り安し。」はともかくとして
実際、早朝稽古はかなり気持ちが良いものだった。

真冬の朝に眠い中、起きて
寒い布団の外に飛び出し
道場までの距離を白い息を漏らしながら移動し
何度も帰ろうか?の思いを越え
寒さで鳥肌たつ素肌に道着を着て
部屋の入り口で座り、礼をした時点で
もう既に脳内物質が出てるのが判るのである。
トリップのための「セット」と「セッティング」が
バッチリ整っちゃっているのである。
もう気持ち良くならない訳がない。

そんな先生の講義の中で度々出でくる言葉が
「変性意識」だったのである。

曰く、日常の延長としての感覚やら
固着した考え方、世界への固定概念を
一度外れてみた時に感じるモノこそが
再び戻る日常に、持ち帰る価値のある視点を
与えてくれる。。

確かに世界の各地に残る、イニシエーションの文化
祭りや神事や音楽が内包する「ハレ」と「ケ」のシステム。
アートもその役割を担っているはずだ。

トリップして、出会い、何かを持ち帰る。

本来、社会の中には人々の意識を健やかな状態に
保つ為のリハビリテーションシステムの様なものが
存在したはずなのだ。

現代においてそれは減少している気もする。


でも、意識がそれを求める限り
そこには新たな形をとってでも
人々は「ハイ」を得ようとするハズなのである。

積み上げた思いやら、期待、高揚感が作り出す
爆発寸前の意識エネルギーの蓄積。「セット」

非日常感覚をいざなう環境。
それは出来れば自然のエネルギーが強いフィールドがベスト。
しかし、セットを持つ複数の人間が集まることでも生まれる
エネルギーの場。「セッティング」

そこで、意識の変容を導くキーパーソン。
「現代のシャーマン」は意外とそこかしこに
いたりするもんである。求めていれば。。



それでは、皆さま、、、良い旅を!





道連れ [エッセイ]



とある休日、家族三人で自転車に乗り
行き先も決めずにふらふらと走っていた。

嫁さんはしきりに「どこに行くの?」と、繰り返す。

あてなく行くのが良いんじゃないか!価値観の相違だな。
「あのね、一人で行くのならどうぞお好きに。
でもね、ふらふらと急に方向転換するあなたの後ろを
ついて行く身にもなってほしいのだけど!」

それは正論だ。

口喧嘩を織りまぜた夫婦の会話を
ハンドルの前のチャイルドシートに乗る我が息子は
聞いているのか、情操教育。バスを見るたび指を突き立て
「とーとね。」と意味深な言葉を繰り返す。

それでも、やはりふらふらとハンドルは
気の向くまま足のこぐまま、なんとなく角を曲がり路地をゆき
気づくと雑司ヶ谷の鬼子母神に行き当たった。

「あたし、他人事に思えないのよね、、、。」

なにが?鬼子母神が?鬼子母神は自分の子供を育てるために人間の子供を食らっていた。
それを見かねたお釈迦様が彼女の末の子を隠してしまい、嘆き悲しんだ彼女は自らの行いに気付き
お釈迦様に帰依して安産・子育(こやす)の神様になったとさ、、、。っていうところに?

「うーん、わたし前世で鬼だったことがある気がするのよね。」
鬼ですか、、、。それはなんだか、、、切ないね。
「そう、切ないのよ。」


熱心に手を合わせる彼女を遠目に
境内の駄菓子店で梅ジャムとミルクせんべいを買う。

ベンチに腰掛けハトを追い回す息子を眺めていると
向かいのベンチに座る家族連れの足下に
一匹の猫を見つけた。

その猫は遠目からも判るほど薄汚れ、体は骨と皮だけといった感じ。
目ヤニでぐちゃぐちゃになった顔に口からはヨダレが垂れている。
フラフラしながらも、かすれる鳴き声を上げながら
人懐っこく足下にすり寄ろうとしている。

よく見ると首輪をしている。
飼われていたのが捨てられたのか
それとも迷ってしまったのか。

向かいの家族連れは、そのあまりの汚さに顔をしかめて立ち去ってしまった。

しばらく気が抜けたように座り込んで、じっとしていたその猫が。
ふと振り返り僕の方に歩み寄ってきた。
近づいてくるにつれて、ひどい様相がよく見えてくる。
確かに少し触るのも、ためらわれるくらいの姿だ。

「にゃあ。」とかすれる声ですり寄る猫をそっと撫でた。

後から来た嫁さんが、近くの店でエサを買ってきてくれた。
鼻も利かなくなっているのか、置いたエサに気づかず鳴きながら
すり寄る。持ち上げて顔をエサに近づけ、どうにか食べ始めた。

「よく食べなさい。」
声をかける嫁さんと共に神社を後にした。


その夜、寝床でどうしても昼間の猫が頭を離れない。

「そうね、あたしも考えていた。けど、ウチにはいるからね、、、。」

そうなんだよね。前に住んでいたマンションの5階の部屋の玄関に
生後2ヶ月ほどの白黒の子猫が、どうやって来たのか鳴いていた。
すくすくと育ち、今や4歳。女盛りのワガママ盛り。
ちなみにそのマンションは動物禁止。
内緒で飼っていたのだが、息子が生まれて一年目
大家にばれて、すったもんだの挙げ句、部屋を出ることに。
猫一匹、赤子一匹、大人ふたり
父が一人で住む実家に転がり込んだのだった。

「この家であの猫と一緒には、ちょっとキビシいよね、、、。」
だよね。なんとかならないかな。せめて獣医に連れて行くとか。

「その後、どうするの?」
うん、、、、。


翌日、どうしても気になって
せめてエサでも、と仕事の合間に鬼子母神へと。
境内を探すも見つからず、諦めて帰ろうと神社の隣の公園を横切ると
公衆便所の入り口の壁際に、丸まって寝ているあの猫を見つけた。

歩み寄ると、はっとしたように汚れた顔を上げて
ふらふらとこちらに歩いて来た。

その時、初めて気がついたのだ。

その猫はウチにいる猫と
同じ柄の白黒だった。



「ねえ、やっぱり飼ってみようよ。色々、問題はあるけど
それはやってみてから考えればいいし。あの子、ウチの猫と同じ柄だし
こうゆうの、縁だから。出会っちゃったもんは仕方ないでしょ。」

帰ってくるなり、嫁さんが切り出した。




さらに翌日、再び家族三人自転車で鬼子母神へと。

やはり便所の壁際に丸まる、その猫を抱き上げ
近くの動物病院へと。

できれば、と祈ったが
残念なことに猫エイズに感染している上に
発症、進行中との診断。

どれぐらい生きるのか判らない上に
ウチの猫に感染の危険もあると説明される。
「広い庭とかがあれば、分けて飼うことも出来るんですけどね、、、。」
との獣医の説明にインスピレーションを感じ
引っ越しを決断。

一週間入院させることにして、帰路に。

「なんだか私達、猫のお陰で人生が動く気がするね。」
そうかもしれない。でも猫だけじゃなくて、子供ができてからもそうだ。

自分では、どうにも進むことも選ぶことにも躊躇する、そんな時
目の前に現れ、出会ったモノが
大きな変化と動きをもたらしてくれる。



旅の道行き、ペダルをこいで進むキャラバン。


道連れは多いほうが良い。





(追記)
引っ越しの契約やら準備やらで、慌ただしい中
実家にやって来たその猫は一日三食エサをたいらげ
甘えては水を飲み、また甘えては飯を食い、徐々に肉がついてきた。
皮膚病のなのか、毛が無く禿げ上がった背中や腕が
撫でるたびにみるみる生え揃い汚かった体毛にも艶が出てきた。
生き物は不思議だ。
ご飯や水分だけでなく、別のエネルギーも必要なのだ。



いま、たぶん世界の誰かさんも考えたこと [エッセイ]


今に限ったことではないのだけど、最近とくに感じることがある。
それは「今、自分が考えている事が本当に自分の考えている事なのかが定かではない」ということ。

たとえばテレビを見ている。
そこで喋っている芸能人に突然イラっと腹が立つ。
自分としては理由がわからない。とくに何か引っかかるような事を感じない。
ふと隣で一緒に見ている嫁さんに声をかける。

「今、このタレントさんに腹立てた?」

「なんで判るの?ちょっと前の物言いにカチンときてたんだよね、、、、。」


または電車に乗ろうとしていると、扉の前で急に嫌な気持ちにかられる。
急いでいて、違う乗り口に変える余裕がなく電車に乗り込む。
電車が走り出しても、そわそわとして落ち着かない。
すると少し離れたところで突然、乗客同士が口論を始め喧嘩になる。

これも喧嘩してる当人たちの感情なのか、不穏な空気を感じた周りの乗客の気持ちなのか、、、。


近くにいる人間の感情が自分に流れ込んでくるのはまだ判る。
しかし距離や時間を隔てていてもこういう事は起こる。

十数年ぶりの友人に街で偶然会った時に
なぜか朝から普段考えもしない相手のことを
お互いに思い出していたりする。

合気道の道場で自分が受け持っている教室でも。
その日にやる稽古の内容を僕はいつも始まってから思いつきで決めている。
遅れてやって来た道場生が入ってくるなり
「最近ずっと、今やっている内容について考えていたんですよ。着いたらやっているからびっくりしました!」


昔、若かった時には「自分は自分だ!」と無邪気にも信じて疑わなかった。
けれども歳を経て、自分の思考、感情、意識や体、それら全てが独立してある訳ではなく
色々なモノの影響の上にあることに気づき始めた。


その日の天気。(ロシアから南下してきている低気圧に)

昨日、食べた食事。(殺されることを悟り、怯えていた子牛を使ったステーキ)

今日着ている服。(中国の工員が恋人の事を考えながら縫い付けた襟首のタグがチクチクとする)

世界の誰かさんの思いつき。(ヒマラヤの村の若者が新しい社会の仕組みを農作業中にひらめく)


それらが想像もつかない次元と複雑な絡み合いで
今この時も僕に影響を及ぼす。

そう考えたときこの身体や自我さえも
世界と自分を隔てる境界ではないのかも。

「僕が発明しました!」とか、
「俺が見つけたんだ!」とか、
「自分で決めたことだから、、。」とか、
「あーイライラする!」とか、
「そう、私らしく!」とか、とか。

自分がやった、自分が考えた、自分が自分が、、、と思っていると気づかない。
けれどもつながっている。気づこうと気づくまいと。

それがとても嬉しく感じるのだ。
誰にも見られていなくても、誰に知られていなくても
今、そこにいるだけで世界に影響を及ぼしている。

だから、遠慮なく行動しようと思うのだ。
思うがままに。




イロイロ [エッセイ]




本当に、毎日色々ある。


同じ日なんて無い。
当たり前といえば当たり前。
に、しても毎日毎日、イロイロだ。



仕事場の整理をしなきゃ。そういや壁の塗り替えが途中だな。(塗りムラ目立つなー。)

そうそう、息子のウンコが固まり始めた。大人な形だった。(立ちながらいきなり泣き出すのは、キバッてたのね。)

車の保険の更新の葉書はどこに?

テレビの映りが悪いので今さら室内アンテナを買った。
(なんと!地デジ対応の室内アンテナがあった。て、いうか未だアナログブラウン管。)

外の植木のパッションを越冬のために室内に入れないと。
あ、ツタが絡みまくってたな。どうしよ。(あれ、全部外すのか?)

年賀状のこと忘れてた!あ、ハイハイ猫の缶詰帰りに買います。

あーあ。とうとう任天堂DS買っちゃった。(ええ、脳年齢53才って、、、。)

そうか、なるほどね。宇宙はそんなことになってたのねー。

鳥インフルエンザが人から人に感染!?(流行したら、二週間分の食料を買って絶対外出しちゃ駄目だって!)

なかなか玄米ってイケるね。美味しく思えてきたよ。

息子はまだ寝ないのか?もう夜中の三時だぞ。(誰に似たんだか、、、あ、オレ?)




、、、、、今日も色々あった。

また明日もイロイロだろうね。


今年もまだまだ色々。



来年はもっとイロイロでありますように。







日記 その2 [エッセイ]




知らない町を歩いていたら

塔に出会った。


その塔はずいぶん前から建設を進めているらしいのだが
未だに完成をしてないらしい。

近くでアスファルトを引き剥がしているのだろうか
湿ってずいぶん長いこと空気に触れることのなかった土の匂いが
鼻をついた。




いつか焼却炉の煙突のてっぺんの部屋に
住んでいる夢を見たことがあったのを思い出した。

その部屋は四方に窓があり(窓と言ってもタダの四角い穴なのだが)
それぞれの窓から見える街並みが
過去に見た夢に出てくる街なのだった。
それぞれの街はまったく違う時期に夢で見た街なのだが
どうやら、それぞれの街はつながっていない様なのだ。

それぞれに独特の匂いと言うか雰囲気を持っていて
煙突の上から四方を眺めていたのだが
どうしてもその内の一つの街に行きたくなってしまった。

でも、その部屋には階段もなければ縄梯子もついていない。

そうか。ずっとここに暮らしていたんだっけ。
諦めというより安楽な気持ちで横になった。


そんなことを思い出していた
この見知らぬ街の見知らぬ塔の前。



気がつくと薄暗い、いつもの寝床。
夢の中で夢を思い出していたらしい。


あの煙突の部屋への行き方を見つけたような気がしたのだが
思い出そうとするそのそばから
記憶が水面の紙のように崩れ
消えていってしまった。

枕元に手帳をおいとかないとな、と
思っている意識が

再び押し寄せてきた睡魔で滲み始めた。




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一日の終わりに [エッセイ]



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泣けるくらい夕日がきれいだったので




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景気づけに栄養ドリンク飲んで
ぐっとつぶしてみた。

あんまりへこまなかった。


いい日だった。






ある午前の風景 [エッセイ]



昼前の児童館は戦場だった。


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数に限りがあるオモチャの車の争奪戦。

あちらこちらで行なわれる車の所有権を巡る抗争。
暴力を行使する子供。泣きわめきしがみついての防衛。
親の微妙な仲裁と牽制。


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ふと見ると我が息子、

デッドスペースに乗り捨てられた新幹線をゲット。


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その後も何回か途中下車を繰り返すも

他の車には脇目もふらず
新幹線をチョイス。

一才そこそこで好みがブレない。
見習いたいものだ。


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飲み物なら迷わないけどね。
ミルクたっぷりが好き。


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、、、、そうですか、

それはよかったね。





続続 三丁目の夕日 [エッセイ]



仕事を求めて家族三人、上京してきた。



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町の広場は人々の歓声や怒号にあふれ

あてどない時間が過ぎてゆくばかり

火事か空襲のような真っ赤な夕暮れの空をみながら

これからの三人の行く末を思うと

不安と絶望が仲良くワルツを踊って現れる。



ひときわ多い人だかりの輪の中に

初めて見る街頭テレビを見つける。

テレビの画面のなかで日本人のレスラーが

自分の体よりでかい外人レスラーと戦っていた。

打たれても打たれても立ち上がり

平手チョップで戦う彼の姿を見ていると

体の芯から熱いものがこみ上げてきて

絶対この二人を守ってやるのだと

気がつくとコブシを握った手が小刻みに震え

目からは涙が溢れていたのだった。


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横浜ラーメン博物館にて






電脳化希望 [エッセイ]



パソコンが壊れた。


たったそれだけでドタバタの大騒ぎだ。
仕事が出来ない、メールが出来ない、ブログが書けない、
判らないことを聞けない。(ネットという名の長老さまに、判らない事は全部教えてもらっていたのだった)

パソコンに依存した命、だったのだ。
パソコンに食わせてもらっているのだ。(家族ぐるみで。猫含む。)

ヒトは言う。
「人間は本来、自然の一部。
電子なぞ無くとも生きてゆける
さあ、テレビ、パソコン、車に携帯。
すべてを捨てて本来の姿に!!」

なーんつって生活出来ません、必要です。

たしかに、たかだかプラスチックの箱を開けて
あーでもない、こーでもない、と脂汗たらしている時に一瞬
「なんでこんなものに振り回されているのかしら?」と疑問を抱く事もある。
けど、あるおかげで出来なかった事が出来るのは確か。
まー望むか望まないかはヒトそれぞれだけども。


アニメで脳を電脳化して、たえずネットに繋がっている未来のお話。
電脳化の手術は個人の自由。
したい?したくない?

僕します。たぶん。

むかしむかしは自然を媒介にして世界と繋がっていた人間。
けど、生まれも育ちも都会っ子の僕にとって電気の世界も身近な環境であーりました。
ウチの息子は一才ですが、勝手にパソコンつけて「テツヤ・コムロ」ばりにキーボードの上に乗り、叩いてます。
それに僕の携帯のロック解除して勝手に電話をかけます。
(仕事先のヒトから、荒い息づかいで無言電話があったけど、なんですか?って言われました。)


ヒトは言う。
「ネットの世界はウソばかり。それに自分にとって必要な情報なんてわずかだ!」
そうね、でも現実の人間もウソはつく。ついているのも判らないウソまである。
ホントかウソかはどーでも良い。
自分が信じたいものは信じます。
見てから決めます。

お話のなかで、ネットから脳みそハッキングされて
操られたり、記憶を書き換えられたりする危険があると。

大丈夫、今でもすぐにヒトに乗せられるし
記憶も自分好みに改ざんしてますから。


で、、、、電脳化したいです。

とりあえずパソコン直るまでに、はやく、、。





熱帯夜の風景 [エッセイ]


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蒸し暑い夜の街に

大きな恐竜が、たたずんでいました。


暑いのでサッパリとした、レモン味の缶酎ハイが

しゅわっと。

片手に柿ピー、荷物が重い。

熱帯の国の腐ったような匂いをかいで

うれしくて、ニヤニヤしてる。



お先に失礼します。







まる [エッセイ]



こんなにきれいな円を作れるんだなー。人間って。

うつくしい。

と、ビール片手にしみじみと川辺の手すりを見つめていた。夏。



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我ら、いずこより来りて [エッセイ]




家の荷物の整理をしている親父が
一枚の写真を僕に見せた。



「うわっ、すごいデブな赤ちゃんだねー。イベリコ豚?
 誰よ、これ?」


「お前だぞ、それ。」




「、、、、、、、ウソでしょ?」


「いいや、お前だな。それ。」




「デブだね、、、俺。」


「ああ、デブだな。」






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我、いまだ我を知らず。







13 [エッセイ]




先月末に母の十三回忌があった。


正確には祖父と祖母と母の三人の十三回忌だ。

十三年前、同居していた三人の家族が三ヶ月の間に立て続けに逝ってしまった。

祖母と母は一日違いで別々の病院で息をひきとった。

当時、父は葬儀の準備やら死亡届やらで奔走して

感傷に浸る暇もなかった。(と、思う。)


親類を実家に呼んで十三回忌を終えた父は

家族の荷物を整理し始めた。

荷物を吟味しては、たまに感嘆の声をあげ

しばらく眺めた後

ゴミ袋に詰め込む。

玄関に積み上げられたゴミ袋たち。

それらは十三年寝かされた後に

やっと焼却炉へいくことが出来た。



13。

特別な数字。

死んだものにとっても、生きているものにとっても

節目の数字。

時間をかけてちょっとずつ手放していくのだ。

あの世もこの世も。



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ビギナーズ・ハイ [エッセイ]




はじめてのことを始める時、ドキドキします。

緊張します。慣れない敬語でしゃべります。

正座で話を聞いちゃいます。

足の痺れを我慢します。

知らない人がいっぱいです。



僕の通って教えている合気道の道場に
このところ見学者がちょくちょくやって来るのです。
先日来た見学者は僕よりも明らかにふた周りくらい年配の男性で
長い時間、律儀に正座をし続け、恐縮しながら話を聞いていたのです。
後日、その方は入会して初めての稽古で
終止楽しそうに身体を動かしていたのだけれど
終わった後に話をしてみると、以前から興味をもっていてこの道場を知っていたのだが
見学に踏み切るまでに随分時間がかかったと言う事を話していた。
「そうなんですよね〜。すごく判ります。」なんて相づちをうちながら僕は
自分が高校生の時に初めて道場の門を叩いたときの事を思い出してしいた。
当時一年の半分近く学校に行かない不登校児の僕が
ある本の中のワンシーンで合気道の画を見た瞬間、痺れるようなインスピレーションを覚えて
気がつくと近所の街道場へと見学に出かけていた。
コンビニで整髪料を買って何故か髪をオールバックにして
白いワイシャツをパンツにインさせて、チグハグな親父のネクタイをしめて道場に向かった。
今思うと自分なりの正装のつもりだったのだろう。
緊張しながら階段を上がり扉を叩いてかすれる声で「失礼します!」なんて声を上げて。
扉が開かれて迎えてくれた人の後ろに
畳を叩く音や衣擦れの音が溢れ大勢の大人達が
道着姿で動き回っているのを見たときのドキドキは何とも言えない緊張と興奮だった。


あたらしいことを始める時

恐れとか躊躇とか、不安とか緊張とか
出会いとか驚きとか、違和感とか人見知りとか
それでも一歩踏み出して飛び込んだときのあの細胞の興奮
ほんとうにそれはこの世界の醍醐味がつまった
貴重な瞬間だな、と。

その興奮をまた味わいたくて
あらたなことに挑戦してみたくなる
そんな気持ちにさせて貰いました。

ありがとう。



いるモノといらないモノ [エッセイ]




引越しをした。



一週間にわたるドタバタ劇の末に、なんとか引越し先に荷物を詰め込んだ。

ダンボール箱とゴミ袋の渓谷に立ち尽くし、自分が何をすればいいのか判らないでいる日々。

仕方なく足元の小さなダンボール箱を開けてみる。

中からさらに小さな小物入れが。

開けてみると洋服のボタンが一個だけ、それにセミの羽が一枚、期限切れの割引券、特別キレイでもない石ころが数個。


なんだかもう全てがどうでもよくなってしまった。

あらためて周りを見渡すと膨大な荷物。

なんだかそれら全てがどうでもいいものに思えてくる。

ビニール袋いっぱいのセミの羽。ダンボールいっぱいの割引券(すべて期限切れ)。大きな旅行かばんいっぱいの石ころ。

もうイイ!たくさんだ。生きていくのに必要なものだけでイイじゃないか!

もっと身軽に生きていこーぜ!余計なものがあると身体が重くなる。

そうさ、ポッケトに大事なものだけ詰め込んで旅に出ようぜ!イェイ!

なにがエコだ!なにが「もったいない」だ!

こんなに無駄なものばかり抱え込んで引越しするほうがよっぽどCO2を排出するわ!

本もいらん!どうせ他人の人生だろ。捨ててしまえ!

ん?あ、待って!それ捨てないで。谷口ジロー著「孤独のグルメ」は名作だから、うん。

ちょっと、ちょっと!その雑誌は貴重だから残しといて。デビュー当時の宮沢りえのファッション写真が載ってるから、それ。

え?そのネジは、、、、、、何かに使えるかもしれないから、一応。


あ、それ置いといて。あとでチェックするから。



、、、、、、、、しっかし、あらためて読んでもオモロイなー、「火の鳥 宇宙編」手塚治虫著。


人生の大切なことが、ココにあるね、、、、、うん。




おくる言葉 [エッセイ]




ありがとう。
ありがとう。



まるで戦艦ヤマトのブリッジのようなデカイ窓と部屋の形に「ありがとう。」

遠くの神社の樹々が見渡せる窓からの眺めに「ありがとう。」

エレベーター無しの五階までの階段に「ありがとう。」

四角く切り取られた様に空が見える大きな箱庭のようなベランダに「ありがとう。」

そのベランダのたくさんの植木と大量のダンゴ虫に「ありがとう。」


夏は植物園のように暑く部屋の中で日焼けしましたね。

冬は部屋の中で息が白くて季節を肌で感じれました。

子供用プールにお湯を張りベランダで露天風呂を楽しみました。

仲間達とベランダで飲み明かしたこともありました。



この部屋で子供を授かり

白黒のネコが迷い込み

家族がふえました。


ありがとう。
本当にありがとう。


この部屋を出ても
ここでの時間は消えません。



本当に本当にありがとう。









膀胱炎 [エッセイ]



膀胱炎になってしまいました。


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血尿が出てしまい
薬飲んで、食事療法中です。


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ん?
あ、猫の話です。

合気講座 [エッセイ]



学生の頃から始めた合気道がもう18年も続いている。


写真とともに僕の人生にとって大事な柱になっている。
8年前からお世話になっている今の道場で(さいとう道場
自分のクラスを持って教える様になって3、4年になる。

教えていると言っているが、それ以上に自分が教わることや勉強になることがすごく多い。
いまの道場の先生曰く
「人に何かを教えていると思ってはダメ。相手が何かを気づき、感動して何を持ち帰ったかが重要」
ゆえに「指導者は教師ではなく師範たれ。師範とは自らの行動を持って範となる」のだそうだ。

不思議なもので、この言葉通り「自分が教えるのだ」と思って人に対していると
ものすごく、しんどいし疲れる。さらに自分を大きく見せようと思ったり自分の考えに執着したりしてしまう。
それどころか気がつくと、いつからか自分の成長がピタリと止まっていることに愕然とする。

それに対して相手に「楽しんで欲しい」「上手くなって欲しい」と思ってやると、どんな疲れている時でも
不思議と力が満ちてくる。しかも楽しんでもらいたいなら、自分が楽しんでいるさまを見せれば良いし
上手くなってもらいたいなら自分が向上し続ければよいのだ。
なんとも当たり前な話しなのだが、人に指導するということで、それを身を以て実感させられる。


「流れにのる」というのは世界を大小様々なエネルギーの流れとして見ることが大切だ。
人との関わり方をエネルギーとしてみると、いかに相手からエネルギーを奪おうとしている行為が
多いかということに気がつく。
教えているつもりで、実は自分の知識や力を誇示して相手からエネルギーを取ろうとしていたりするのだ。

自分のところでエネルギーを独り占めしようとせき止めると、流れから分断されて離れて行く。
川の流れもせき止めようとすると、流れは新たな流れを見いだし、そこに僅かな池を残して離れて行く。

社会という流れの中で、知識やお金もエネルギーである。
しかしそれらを創りだしているおおもとは人間の意識エネルギーなのだ

目に見えないけど、感じることは出来る。



「自分」と思っているこの筒の中を
出来るだけ多くのエネルギーが流れ込む様にと願うなら
出来るだけまわりのモノすべてが流れ良くある様にと願い行動せよ

これぞ極意なり!!

(民明書房「氣―その効用と実践」より抜粋   by 魁!!男塾 )

つづきのねこ [エッセイ]




父が一人で住む実家に、猫がいた。


まだ、家族6人がその家に住んでいた時代から生きていた猫だ。
猫の20年は人間にすれば100歳くらいだろうか。灰色の縞の柄をキジトラと呼ぶらしい。

高齢によりボケはじめており、ご飯をいくら食べても、またくれー、と要求する。
けれども歳のせいか栄養吸収が出来ず痩せており、ふらふらと酔っ払った様に千鳥足で歩くのだ。

鳴き叫びながら外に出ていき、そのまま帰ってこないことが2、3回あり
その度に町内に張り紙をして回り、夜な夜な懐中電灯を片手に探しまわった。

そしてその度に生還するのだ。
ある時は遠くはなれた埋め立て地の動物保護センターなる施設で
殺処分の数日前に駆けつけたこともあった。

なぜか近所の住人に人気があり、僕も知らないような人にまで声をかけられ猫の心配をされる。
僕の知らない所で自分の家の猫がどんな生活をしていたのか、知るよしもないのだが。

ある日を境にご飯を食べなくなり、横になって眠り続ける様になった。
スポイトで水を飲ませながら、父とその時が近いことを話していた。
翌日仕事に出てしまう父と入れ替わりで見に来ることを約束し、実家を後にしようとした時
眠り続けていた猫が、急に立ち上がった。
生まれたての子鹿の様に、ぷるぷる震えながら声にならない鳴き声をだした、様に見えた。

翌朝、夜のうちに降り出した雪が強くなり、ずいぶん降り積もっていた。
電車も動いているのかどうか判らず、ぐずぐずしていたら時間が過ぎてしまい
結局タクシーに乗って実家に着いたのが昼前くらいであった。

父はもう出かけてしまったらしく、玄関には鍵がかかっていた。
鍵を開け玄関に入った瞬間に、なんだか不思議と判ってしまった。
階段を上がり廊下を歩きリビングに入ってみると、猫は同じ場所で寝ていた。
触ると暖かく身体も柔らかかった。
一つだけ昨晩と違うのは息をしてないということ。


それから数ヶ月、ずっと後悔の言葉を繰り返していた。


あるとき一冊の本に出会った。
その本にはこう書いてあった。

「こころの底につながっていた だいじなねこをなくしたきみに そんなにもはげしくまたと
もとめるならば戻ってくるよ  なぜといって、わたしのねこも やっぱりちゃんと返ってきたから

ちいさなものたちが返ってくるのは あの時ああしなければ、などと どうしても繰りごとをいう
私たちを見かね、ゆるしてくれようとするのじゃないか」


半年ほどたったある日、マンションの5階(エレベーター無し)に住む僕と嫁さんの部屋の
玄関の外から猫の鳴き声が聞こえた。
空耳だろうと言いながらも嫁さんが玄関を開けてみると
産まれて間もない子猫が一匹
ちょこんと座っていた。

猫のくせに人の目をジーとそらさずに見るところがそっくりだ。
そうか、つづき。



ありがとう。







「つづきのねこ」  吉田稔美 著

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雨について [エッセイ]




ここ数日、雨降りな日々。

週末まで雨が続くらしい。

うれしい。

子供の頃から雨が好き。

気持ちがいい。せいせいする。静かな心持ちになれる、気がする。

毎日、雨でもいい。

ずっと雨が降り続ける街に住んでいる。

そんな妄想でウットリとしていた。暗い少年。

太古の地球は数千年雨が降り続けていたらしい。

そうだったか、やっぱりね。なんだかうれしい。

図鑑を見ながら暗い少年は一人うなずく。

しかし、よく読むとその雨はものすごい豪雨のうえに数百度の熱湯。

さらに酸性雨、だと。

それじゃない、そうじゃないんだ。

がっかりする暗い少年。

しずかに静かに、ざー、と降りしきる雨。

空は曇りがちだが暗くない。

やさしい優しい、そんな雨。だったはず。

マグマが冷えて出来た海辺の岩場に、傘さしてぼー、と雨を見るのだ。

暗い少年はそうして海が出来るまで雨を見ていましたとさ。



めでたしめでたし。




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Bali Ubud

こどもの時間 [エッセイ]



息子が8ヶ月目に突入。

ハイハイもパワーアップして、軽い障害物なら乗り越えていくようになってきた。
床に横になった僕を軽々と乗り越えて、なぜかネコのトイレ目指してまっしぐら。
目を離すとネコの砂とともに、かりんとうの様になったウンコを握りしめ「うへへっ」と笑っている。

「なんだ、お前はそんなに簡単に父を乗り越えて、欲しいモノを手に入れるのか?」

こどもの時間は早くて奔放で、暴力的なほどに大胆で
世界の感触を確かめる好奇心でいっぱいだ。

父親よ、息子にとって越えがたき壁たれ!

お目当てに向かってハイハイする息子の行く手に立ちはだかり
越えても越えても掴み上げ、もとに逆戻りさせる。
そのうち仰向けになり思う様にならない不満を、泣き声で高らかに表す。


「そうだ。これがこの世界の不条理だぞ。すべてが思う通りにはならん事を学べ!」


泣きながらゴロゴロと寝返りを繰り返すうち、近くに転がっていた紙くずを掴みあげると
あっと言う間に泣き止み、真剣な眼差しで紙くずを吟味し始める。


「ほう、なるほど。こだわらない事は大切だね。勉強になります。」


こどもの時間は非日常的で
大人が考える人間の概念に囲われることのない別の世界で
流れているようだ。
そこで彼らは自由に遊ぶのだ。
すばやく、奔放に、暴力的に、大胆に

そしてはち切れるほどのエネルギーを放電させて。



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Vietnam. Ho Chi Minh


千鳥ヶ淵と旅する雀 [エッセイ]



暖かな小春日和、とまではいかない三月下旬の昼下がり
家族三人で皇居の周りを散策した。

皇居のお堀でボートに乗れるところがあると知り
お堀の石垣に取りつき、城内に侵入する妄想に興奮しながら
嫁に提案するも、寒い、子供が危ない、別に乗りたいと思わない、と拒否された。

しかたなく近くのファストフードでポテトを購入し、お堀沿いの公園に腰をおろす。

桜のつぼみが膨らみ、ところどころで二分咲き程度。
「あたいら桜の前座じゃないのよ!」とばかりにモクレンとコブシが肉厚な肉体美を満開に咲かして
妖艶な魅力で、可憐な桜に対抗している。

ランニングする西洋人が任務遂行中のような真剣な面持ちで
腕時計のタイムをスタートさせ走り出す。
寒くないんだろうか?ランニングに半ズボンで。
「肉ばっかり食べてるから燃えてるんじゃない?」と微妙な発言をしながら嫁は
ベビーカーの息子に笑いかける。

穏やかなる時間が流れる。

「皇居の中って昔の自然が、そのまま残ってるのかな?」

「どうなんだろ?昔はお城だったんだろうけど、いつからあの森みたいなのになったのかね。でもお堀に囲まれて、離れ小島みたいなもんだし、独自の生態系が出来てそうだよね。」

「じゃあ狸とか狐いるかな?」

「狸はいるんじゃない。狐は知らんけど。狸なんか都内の色んなとこに生きてるらしいよ。世田谷の踏切の
線路脇で生きる狸一家、ってテレビでやってたしね。」

「ふーん、じゃあ熊は?」

「熊は危険でしょ!皇后陛下が朝のご散策をなされている時、襲われたらシャレにならんでしょうが。」

「そっか、、、。熊は危険だね。」

「そうだよ、熊はダメだよ、熊は。」


ベビーカーの息子は知らぬ間に、つきたての餅みたいな顔で眠っていた。

気がつくとポテトの匂いを嗅ぎ付けたのか、スズメが遠巻きに僕らを囲み
ふっくらとした毛玉のような身体で、問い掛けるように頭を傾けこちらをうかがっている。

ポテトを細かく千切って投げてやると、自分のクチバシよりでかいポテトをくわえて
必死に飲み込もうとしている。

「ねえ、塩分多すぎだよ。油も。」

「いいんだよ、都会に暮らす生き物は「一蓮托生」でしょ。同じもん食べて成人病と折り合い付けて
生きていくのよ。スズメもハトも、カラスもネコも。」

「ちょっと、あげ過ぎだって、、、。」

「いいんだよ、たまには。それにこうして恩を売っておけば恩返ししてくれるかもしれないし。」

「恩返しって、いつまたココに来るかも判らないのに?」

「知らないの?スズメってすごい移動するヤツもいるんだよ。日本海側から太平洋側に渡るヤツもいるらしいし。産まれた場所で死んだ親の後を継げなかった若鳥が集団で移動するんだってさ。」

「へー、じゃあこのスズメたちと日本のどこかで会うかもしれないんだ。」

「もしかしたらね。もともとコイツらのご祖先は昔、アフリカ大陸に住んでいたらしいのよ。人類の大移動と農耕文化が広がっていくのと同時に生息分布を広げてきたんだってさ。だからスズメは人の生活圏から離れることがないらしいよ。」

「ふーん。じゃあ違う街で会うかもね。でも、よく知ってるね、そんな話。」

「ほら、蛇の道はヘビっていうじゃない?」

「なるほどね。」


「ペチャ」という音とともに肩と頭に何かが落ちてきた。
なんと律儀な。こんなに早く恩を返してくれるなんて。


いつの日か、またどこかで会いましょう、、、、。

チベットの想い出 [エッセイ]



最近、ニュースではチベットの映像がたびたび流されている。
暴動による衝突で多くの死者が出ていると、キャスターは話している。


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必ずしも映像や写真は事実を伝える訳ではない、と僕は思う。

撮る人間、編集する人間、それを伝える人間の主観やら思い入れやら思惑などが必ず入る。
では、実際にその現場に立てば真実が見えるか?といえば、少なくとも紙面やテレビの画面よりは
多くの情報を肌で感じる事は出来るだろう。
けど、出会う人間、知り合い仲良くなった人々、見る場所、出会う出来事、感情移入してしまう側、
それぞれの主張、そういったものも全て実は限られた情報なのだと思い知る。


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でも、僕が10年以上も前にチベットを旅した時に感じた色々は
今でも色濃く僕に影響を与える記憶として残っている。


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青などではなく、限りなく宇宙に近い濃紺の空。
飛行船の影かと思って見上げると、標高の高さゆえに頭のすぐ上に浮かんでいる濃密なる雲。
荒涼とした火星のような風景の中を、人々は来世の幸せと家族の健康を祈り、巡礼路を歩み
五体投地を繰り返す。


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自分以外のもに大きな信頼を寄せ、多くのモノをかけて、それを証明する。

はじめて「信仰」というものの力を感じた貴重な体験だった。


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どうしても、そのチベットの信仰の中心なる人物、「ダライラマ14世」を一目見たくて
情報をたよりにインドの山奥のレーという場所まで行き
そこで、ちょうどダライラマの誕生日に行われる説法会という機会に恵まれ
彼を見る事が出来た。


普通のオッサンのように見える気さくな雰囲気のその人は、よりよく生きるための知恵を
判りやすく、時には笑いも交えて人々に説いていた。


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自分の主観や自我からは抜け出す事の出来ない僕に出来る事は

それでも色々なモノを見て聞いて感じて考えて
感性という名のもう一つの僕、自分の事として感じる範囲を
大きく拡大していくことが出来ますようにと、、、


祈るように日々を生きてます。



拝啓 [エッセイ]



ひさしぶりに手紙を書きました。
そちらは、いかがお過ごしでしょうか?

なんだか毎日よく判らないままに、どんどん色々なモノや人や出来事が
目の前を光の速さで通り過ぎてゆきます。


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今日の平均気温は最高で14度、最低で6度。

天気は曇りのち午後から雨。降水確率70パーセント。

昨日の日経平均株価は12,861.13で、 プラス202.85だそうです。

それに今年の春は花粉が3倍だそうです。




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目に見えないものでも数字で表されると、なんとなく「なるほど、そんなもんか。」と思うもので。





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目に見えないあなたの住む世界にも、平均とか確率とかあるんでしょうか?

今度、教えてください。



また、手紙書きますね。




敬具



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ものづくりの喜び [エッセイ]




「世田谷ものづくり学校」ってご存知でしょうか?

世田谷の池尻にあった旧池尻中学校跡地を利用して、学校の建物をそのまま活かして
会社の事務所だとか、作家さんのアトリエだとか、カフェだとか、そんな色々があるスペースなのである。

理科室だか家庭科室だか忘れたけど、その教室がうまいことカフェに改築されてたり、廊下を歩くと
建築デザインの会社なんかが個人のアトリエと並んであったりと、なんだかワクワクする所なのだ。

教室の形をそのまま残したレンタルスペースで、会議やらワークショップなんかもひらかれているらしい。

去年の話になるのだけど11月に、このものづくり学校の中のギャラリーで
歌い手さんの扇谷一穂さんの個展とライブがあったのです。
彼女はシンガーだけでなく、絵や造形を創る作家としての活動もしていて
この時、展示された作品が天井から吊るされたモビールで(って言う名前初めて知りました)スプリングが
付いていて手で引っ張ると、びよーんって上下するのだけど
なんだか大人も無邪気に遊んでしまう作品でした。

施設内のカフェで行われたライブも素敵な時間でありました。

あまり思い出したくない暗くて辛い学校時代をおくった僕なのに
その学校の形をしたものづくりの空間は、なんだか夢のような楽しげな場所に感じられ
ここで、何だか楽しいことが起こるような期待感を抱いてしまうのが不思議でありました。

本当は学びの場は、驚きやら感動の場であるはずなんだろうし、「ものづくり」とはやっぱり
子供時代の、わくわくドキドキの遊びの時間の延長にある行為なんじゃなかろーか。と、
廊下や階段を上り下りして、校内を歩き回る自分のハシャギっぷりが
なんだか新鮮な気持ちを思い出させてくれたのです。





ものづくり学校




扇谷一穂 art work in IID GALLERY



春待ち [エッセイ]




少しずつ、春らしくなってきました。

ウチの猫もなんだか興奮してます。

動物は皆、春になると蠢きだすのです。

「うごめく」で変換したら、「春」の下に「虫虫」です。


そんな春なんです。

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渚のハイカラ任侠 [エッセイ]



冬の海は寒うございました。




太平洋から吹いてくる海風に、なぜか人の脇の匂いを嗅ぎ取り

困惑したのであります。




うつむいて歩く足下には無数の人間と、その他の動物の痕跡を見つけ、、、、、




見渡す水平線にキャラメル工場の煙突を見つけて、ポケットをまさぐたっのでありんす。



ああ、わたしは牡蠣になりたい、、、。


地球に優しい話 [エッセイ]



先日、電車に乗りながら知り合いの男と二人で話していた。

その男はナノテクノロジーの研究をしている男で
なかでも太陽電池の研究を専攻しているという彼は、太陽電池の未来を力説している。

「太陽電池がもっと安価でエネルギー効率も高くて、さらにコンパクトになったら世界も
ずいぶん変わるんじゃないかな。なんせ石油エネルギーを奪い合って戦争することも無く
なるし。太陽エネルギーは無尽蔵だから、誰もが好きなだけエネルギーを使うことが出来
るようになるのよ。うん。」

「ふーん、そんなに簡単にいくかねー?ソーラー発電なら、ずいぶん昔から菅原文太さん
頑張ってCMしとるけど、あんまり普及しとらんのじゃない?」

「いつの話よ、それ。それに将来的には太陽発電を宇宙でやるって計画もあるくらいだか
らね。衛星飛ばしてね!」

「宇宙?どうするの、貯まった電気は?いちいち回収するとか? あ、地球と電線でつなぐ
のか。あれだな、凧みたいね。」

「やだねー、昭和アナログ世代は。テレビのリモコンが、コード付きだったクチだ、チミは。
飛ばすのよ、地球に。マイクロウェーブで。」

「ほー、電気飛ぶの?すごいね。けど大丈夫、それ。マイクロなんチャラって電子レンジの
やつと同じでしょ?煮えちゃうね、人間。」

「はー、ホントこれだから素人は、、、。街に浴びせてどうするの。マイクロウェーブにも
色んな種類があるのよ。それに、発電所にねらって送るんだよ!」

「ふーん。でも、あれだな。たぶん衛星も発電所も、国か企業が投資して管理すことになる
んじゃない?結局、エネルギー独占するね、また。」

「、、、、、、、、、いや!いや!それだけじゃないから、エネルギー開発は。たとえば
ナノテクノロジーで太陽発電出来る繊維とか出来たら、服着ながら自己発電できるように
なったりとかさ!車も将来的には半永久的に何も使わずに走るようになるかもしれないワケよ。」

「そういえば最近、街でプリウスをよく見かけるようになった気がするよ。」

「あれは、電気半分、ガソリン半分だけどね。でもブレーキの熱を電気に変える技術は実用化
されてるし、太陽電池のボディとか、風とかも利用して、もう全て余すこと無くエネルギーに
利用したら将来的にはガソリン無しの車が誕生するのも夢じゃないのよ。」

「なるほど、無駄がないね、それは。そういやよく駅の人ごみ見てて思うんだけど、人の動きを
全部発電に使えたらなー、って。階段の上り下りするたびに発電、椅子に座るたびにプッシュ
されて発電、扉開け閉めするたびに発電、話すたびに音で発電、、、、、。」

「、、、、、なんか、いちいち貧乏臭いんだよな、お前の話は。まあ、でもそういうことよ。
これからは資源エネルギーじゃなくて、自然エネルギーを活用していく時代なワケよ。
あ、俺この駅だからじゃあな!」

入り口付近の人を押し分け、彼は自分の住まう駅のホームへと出て行った。

残された僕がしばらくボーッとしながら、車窓の外を眺めていると電車はゆっくりと動き出した。
目の前を右から左に流れていく、駅名の表示板が目に留まった刹那、僕の全身が凍りついた。


「、、、、、、、、江古田。」



恵方巻き [エッセイ]



節分には豆まき。

むかし、僕の実家は祖父祖母と同居の大家族だった。
兄弟二人に両親、ついでにネコ。6人一匹の大家族だった。

賑やかなのは良い事なのだが、そこはやはり家族間のケンカも尽きない。
両親共働きの上に、僕ら兄弟が思春期に突入してからは
さすがに家族団らんの風景は少なくなっていった。

しかし、どんなに家族のかたちは変わっても、変わらないものがあった。

それは祖父の行う「豆まき」。

思春期の秘め事を自分の部屋にて行っている時
高らかなる掛け声とともに扉が開かれる。

「鬼はーそとっ!福はーうちっ!」

扉を背にビデオを鑑賞中の僕に、祖父は大量の豆をぶつける。
さんざん部屋中に豆をまき散らし、扉はけたたましく閉められる。
廊下のむこうで引き続き、かけ声が響きわたる、、、、。

当時はイヤでしょうがなかった、そんな出来事が
今では懐かしいだけでなく、自分の中に何かを残している。

こういう行事ごとは別に無くても生活に支障は無い。
けど、あると家族や地域をつなぐ糊みたいなもにはなる。

去年からウチでは豆まきの代わりに、恵方巻きを節分に食べる風習を始めた。
その年の縁起の良い方角(恵方)に向かって願い事を念じながら
黙って太巻きを食べきる、というなんとも風変わりな風習なのだが。

夫婦揃って同じ方角に向かって目をつむり
黙々と太巻きをほうばる、、、、、その滑稽な時間に何故か

毎年毎年、必ず家中に豆まき散らしていた祖父の
恵比寿様のような笑顔を思い出すのである。





クサイはキモチいい [エッセイ]


ワインバーなる店で飲んだ。

立ち飲みでワイン飲ませてくれる店なのだが、最近増えているらしい。
店内に並ぶ豊富なチーズを切り売りしてくれて
それをつまみにワインを飲めるのだ。

この時選んだチーズが、どこぞの修道院に伝わる伝統ある一品らしいのだが
とってもクサくて独特な香りのチーズだった。
まーそれが赤ワインと何ともいえずマッチして
美味いのだ。

そういえば、修道院では資金調達のためにビールなんかも作っていた所もあると聞くし
赤ワインはキリストの血で、オッケーな訳だし・・・・。
やはり修道士といえど、たまには「人はパンのみにて生きるにあらず」なのかもなー
などと、ワイン一杯でほろ酔い気分になってしまった。

しかし、つくづく人間って変態とゆうか、マニアックなお猿だなーと、思う。
こんなにクサイもの食べて、さらにカビ臭い液体飲んで「絶妙なハーモニーだね」なんて言っちゃったりして。

赤ワインから香りを抜いたら、ほとんど味の無い赤い色水みたいなもんだって誰かが言ってたけど
ようは香りを楽しむ飲み物だと言いたいんだろう。

で、香りや匂いを嗜好する行為って、なんなんでしょう?

動物にとって食物に対する嗅覚って
毒や腐りものなんかから危険を回避するための情報じゃないっけか?
まーそれだけじゃないとは思うけど。
どう考えても、クサヤとか、ブルーチーズとか、トウフヨウとか、サバズシとか、、、、、etc
危険サイン感じない?食べちゃダメって思わない?

でも美味しいのよね。
なんでか?

だいたいイイ匂いって、どんな匂い?どんな法則?
香水に猫のオシッコの匂いのような香りもあるっていうのに
ウチの猫のトイレ掃除してる時、恍惚としてるか、、、俺?(愛しくはなるか。小さいウンコ見つけると、、、。)

あ、、、そういうこと?
匂いは好みってこと?(あ、嗜好品って意味ってそうことだったっけか?)

でも、あれか。
すこし危険な匂いが混ざると、興奮するとか?
タナトスか。

おお!
死とエロスか、、、、ドリアァァァァァン!!






うん、、、、酔ったらしい、どうやら、、、、。


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