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「個別の死」と「消えない泡」




猫が死んだ。


と、言っても去年の9月だからもう半年も前だ。

名前はチャタ。


東京の雑司ヶ谷は「鬼子母神」で拾った。
首輪をつけていたから、たぶん迷いネコか、それとも捨てられたか。

医者に診せたら「猫エイズです。発症しておりますので、保って2〜3ヶ月でしょう。」
と、言われた。
看取るつもりで連れて帰り「なるべく明るく陽気な語感にするか」で
「チャタ」と名付けた。

それから、僕ら家族が都心から西東京へ引越して2年。
西東京から長野に引越し1年。
あわせて3年も生きた。

最初の1年は毎月、射ち続けるステロイド注射による効果で
不治の病には見えない元気さも見せていたが
2年目以降、ステロイドも効かなくなり始めてからは
血と膿みの混じる、唾液と鼻水を垂らし続け
さすがにケージの中で飼う以外なかった。

そんな有様でも生きる意思は猫一倍強く
猫エイズの症状である口内のただれによる激痛で悲鳴をあげながらも
一日3食以上食べ続けた。

それでも痩せた身体は戻ることはなかったが。



だから夏の終わりに身体を横たえたまま起きれなくなったのを見て
「もしかしたら」とはさすがに思うことはなかった。

5歳の長男と、同伴で出かけなくてはいけない嫁に
別れの挨拶をさせた。

ケージから出してタオルの上に寝かせ
近くに座り込み、時折思い出したように鳴いて呼ぶ声に
身体を撫でることで応えてやっていた。

虚ろに開かれた目はもう見えなくなっているのだろう。
こちらを向くことがなくなった。

視界の霞に飲み込まれ、不安なのは当然だろう。
何度も鳴く。

呼ぶ声に応えて頭を撫でるが、鳴き止まない。
不思議なもので撫でている手に返ってくる感触で
相手の皮膚感覚の有無が感じられるものなのだ。
反応し合い、交感する感覚が触るということなのかもしれない。
まるで剥製のような感触の頭から手を離し
肩から背中を触ってやると、安心したようにピタリと鳴き止んだ。

徐々に身体から回線が切断されていく。
なにかが切り離されていくように。

身体のどこを触っても鳴き止まなくなったとき
最後に残るのはやはり聴覚のようだ。
耳元で名前を呼ぶと、安心したようにしばらく黙る。


そして呼吸が徐々に小刻みになり始める。

おーい。いるよ。と何度も耳元で呼び続ける。
鳴くことも無くなり、ひたすら浅い呼吸を繰り返していた。


突然、横たわったまま頭を大きく起こした。
身体に力が戻ったのか、と勘違いしたそれは
最期の一呼吸だった。

「息を引き取る」の言葉の通り、大きく吸い込み
頭を起こしたままの姿勢で口をあけて静止した。
その瞬間、虚ろではあったが透明だった目が、すーっと白く濁っていく。
吸い足りないかのように、小さく「カッ、カッ」と息をつまらせ
ゆっくり頭を横たわらせていく。

さいごの切り離しがおわったのだ。

しばらくしてお腹が波打った。
やはり、内蔵は肉体の中でもとりわけ別の理で存在しているのだ。
心臓が止まり、血流が停止して、脳の命令が途絶えても
まだそれは有機的システムとして生きている。
緩やかではあるが腐敗という状態へと移行しはじめた
肉体という物質の中にあっても。

現在進行形で進んでいく、チャタであったモノの変様。
それを見ていたら、あることに思い至った。

ぼくは「死」を見たことがなかった。
そして、「未知なる死」を恐れていたのだ。ということに。



子供の頃、話し相手を求めて毎日のように
祖母を訊ねてきた、近所の一人暮らしのおばあちゃん。
時折僕に500円札を握らしてくれた。
ある日、祖母に連れられ近くのアパートの部屋に入ると
こじんまりとした祭壇の中央で
おばあちゃんはモノクロの写真になっていた。


高校生時代、通っていた街道場で僕に多大な影響を与えてくれ
休日に2人で出稽古にまわり、深夜まで語り明かした先輩。
ある日電話で、事故で亡くなったことを知らされた。


同居していた祖父母は、両親が共働きだった我が家で
僕ら兄弟の保育園の送り迎えから、休日の行楽地巡り
炊事洗濯と面倒をみてくれた。
そして母はシャンソンと古いハリウッド映画が好きな陽気な人で
日曜洋画劇場で号泣し、朗々とケセラセラを歌いながら料理する人だった。
二十歳を過ぎたある年、一日違いで三人とも亡くなった。
いずれも病室に駆けつけた時には、すでに息を引き取っていた。


実家で20年生きた猫。雪の降りしきるある日に
前日と同じ格好でソファーに横たわっていた。

インドのバラナシで見た何十体と燃やされる火葬場の死体達。

新宿の駅構内で行き倒れたホームレス。

多くの「死」に立ち会い
多くの「死」を目撃し
「死」に慣れていった。
つもりでいた。

けれど、一度も死に際を看取ったことは無かったのだ。

死体をみて、真っ白な骨を見て、これが「死」なのだと言い聞かせる度に
茫漠とした「死」のイメージは自分の中で
モヤモヤとした暗いシルエットとして、いつも僕の影に息をひそめて
日々の生活の中で、不安や焦りや、諦めにしみ込んでいたようだ。


ぼくは「死」が恐かったのだ。


そんな当たり前のことに思い至ったとき
もう一つのことにも気がついた。

「死」が単独で存在するわけではなく
それは「誰か」の「死」なのだということに。

「チャタの死」 「先輩の死」 「母の死」

みんなそれぞれ個別の死。
一つとして同じものの無い、それぞれに個性的な
その者の人生の最期であり、そして一部。

僕にとっても彼らの「死」は掛け替えの無いもの。 
自分の人生を彩る、出会いと別れの分ちがたい記憶。

そしていずれ迎える、自分自身の「死」。「石川カツトシの死」。
当たり前のように、それは未知で
当然のように、いつか訪れる
必然の経験。


初めて看取った「チャタの死」。
だからといって恐れはなくならなかった。

けれども、漠然とした「死」は消えて
かわりに「死」が個人的なものに替わった。


「死」に慣れることなんかない。
それが自分にとって掛け替えのない「個別の死」なら。


でも、今までの経験で学んだことが一つある。
自分の中に生まれた「感情」や「想い」は絶対に消えない。ということ。


母の死から13年経ったある夜、ベットで横になりながらある小説を読んでいた。
夜もふけ深夜にさしかかった頃、小説の最後の一節を読んだ瞬間
腹からなにかが突き上げてくると思った時には
嗚咽が止まらなくなり、大声で泣きじゃくっていた。
なぜ、泣いてるのか本人にも判らぬままでいたのだが
急にその感情に名前がついた。

「僕は母の死が悲しかったのだ。」

13年前、我慢して押さえ込んだ、そんな感情は
消えも減りもせず、自分の中にあった。
あの時、本当は、ただただ、悲しみたかったのだ。

けれどもその時にはまだ、その感情に向き合うことが出来ないこともある。
時間という準備が必要なときもあるのかもしれない。
それでも、思いや感情は生まれた瞬間
認知されるまで、想いをとげられるまで消えることはない、そんなことを思い知らされた。
まるで、深い海中で生まれた泡が水面という表層で弾けるまで、漂い続けるように。

もしかしたら長い時間の中で他の泡と混ざり合うこともあるかもしれない。
それでも、はじめにあったその感情が、ずっと変わらずに存在していたことに
泣きながら驚いていた。


深夜の号泣にさすがの嫁も目を覚まし、びっくりした顔で問うてきたが
答えずに泣き続けていると、何かを感じ取ったのか、ただ眠いだけなのか
それ以上何も訊かずに僕の頭に手をのせ、暫くすると寝息をたてはじめた。

ひとしきり泣いたその日から、今まで夢に現れることの無かった母が
夢に出てきて語りかけるようになった。



はじめての「死」
チャタの「死」


(近所に聞こえたら何事かとチャイムを鳴らされないかな?)
(嫁と子供が帰ってきたらどうしよう。)
(いい歳の大人が恥ずかしいな。)

と、少し離れたところから見下ろしている別の自分を感じながら
それでも溢れ出てくるいくつもの泡に蓋すること無く
硬くなっていく猫を撫でながら

大声で泣き続けた。





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コメント 2

ケンゴ。


by ケンゴ。 (2013-03-21 19:00) 

reiroco

チャタちゃんは幸せだったんですね!
by reiroco (2013-07-06 13:39) 

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